2021.5.1(土)
世間様は連休期間、こちらは出勤日。
起きてベランダに出ると、やたら風が強い。¨朝は寒かったのよー¨とカミさん。チーズを入れたコッペパンとホットを出してくれたので朝食をとる。おまけに弁当も作ってくれたらしく、水筒と一緒に手提げバッグに入れて家を出発。この土日を含め、職場もゴールデンウイークモードで勤務メンバーはごくわずかなので、のんびりできる。
昼休みになり、ベランダに出て弁当を広げた。
きょうは忘れずカップにインスタント味噌汁をこしらえ、半分ほど食べて昼の部は終了。朝きっちりパンを食べてきたし、夜7時半までの仕事なので夕方になればまた腹が減るやろう。
デイリーの作業をこなしたり、数日前からちょっと不具合気味でアラームを出していた設備の手直しに対応。図面を元にいざ現物にあたってみれば、不具合箇所の推定とか応急措置にも対処できると言うのに、放置したままの担当者にちょっと立腹してしまう。ちょっとした事の積み重ねや、それらに対する処置の仕方なりスピード感とかは、見ている人はちゃんといる。人をうまく使う・頼ると言うのも有効な手段やろうけど、″あの人はなんでも丸投げする″と受け止められるかどうかの分岐点は、やっばりその人の日々なり長年の、行動の積み重ねにあるような気がする。建築は死闘、破壊は一瞬…やろうか。
本日やるべき事は完了したので、持参した「私の田中角栄日記」(佐藤昭子)の続きを読んでいく。いつしか《終章 政治家の真価》にさしかかり、気になる事柄がポツポツ出てきた。『アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄』という田原総一朗さんが書いた(中央公論に掲載されてらしい)小論文の中身とか、田中総理が考えていた『資源外交』や『アジア太平洋構想』(アジア・中南米・オーストラリアの連携)という部分だ。また、ある人の″五十年、百年後でないと政治家田中角栄の評価は定まらないだろう″という言をひきつつ、筆者は″ロッキード事件も記憶にないような若い人たちに田中政治の真価を知ってほしいのだ″と書いてある。角栄さんが亡くなったのは1993年やから、没後28年か。評価はいまだ定まらないにせよ、正しく評価するための「田中角栄再勉強」てな感じが、目には定かに見えねども、どこか奥深い所でゆっくりと少しずつ、動きつつあるように感じている。
夕刻、弁当の残りを完食。午前中は晴れ渡ったいい天気やったのに、午後のある時から上空が雲に覆われると共にやがて雷まで聞こえてきたものの、やがて回復。今夜もカレーの残りでいいよ…とカミさんにメールしておき、それからまた仕事をして、夜7時半に定時退社。帰宅して、カレーライスとサラダで夕食をすます。
おかあちゃんの命日
昭和48年のこの日、母が逝去。享年42。
48回目の命日となるが、まだ存命だったならば90歳で卒寿となる。
自分は小学校6年で、弟は2年。
自分の誕生日のひと月前に、母を失うことになった。6年前に父が亡くなり翌年には祖父が亡くなったので、別々に住んでいた祖父母とうちの家族に変化が生じ、祖母・母・自分・弟という四人家族がひとつの借家で暮らすことになった。家族構成からして、収入を得る働きがしらは母しかおらず、おぼろげに記憶してるのは(たぶん)早朝に新聞配達をこなした後、日中は鉄工所とかで働いていたらしい…という、あやふやな記憶だけ。
当時は週休二日制やなかったはずやから、せいぜい土曜日が半ドンで日曜日がまるまる休みという勤務体制やったのやろう。あの頃は日曜の夜9時から「東芝日曜劇場」というドラマ枠があって、この番組枠が好きやったのか・それとも特定のシリーズ物が好きやったのかは不明ながら、夕食後ちょっと横になった母が「日曜劇場を観たいから、時間になったら起こしてね…」と告げた後、一週間の疲れから深い眠りにどっぷりつかってしまい、声をかけようと思いつつも言葉をかけれんかったことを、いまでもまざまざと思い出す。そしてそうした時、声をかけられずにいた自分はたしか、言いようの思いがこみ上げてきてしまい、声を殺して泣いていたような記憶もある。
記憶の中には、母の疲れた表情とかの具体的・映像的なものは断片すらないが、疲れきった姿をみて言葉をかけられんかった…という事柄だけが、脳裏に焼き付いている。そんなトラウマ的な記憶があるせいやろうか、カミさんが家事の合間にソファーにちょっと寝ころんでうたた寝している際も、疲れとるのかな/苦労ばかりかけとるなぁ/もっと楽にしてあげんといかんなぁ…と、ただただ反省するばかり。自分の父母に、カミさんや子供たちを会わせることはできんかったが、おばあちゃんには会わせることができた。たぶん、後からあっちに行ったおばあちゃんが、カミさんや子供たちの事を話してくれてるやろう。″どうか見守っててな…″と、いつも夜空を仰いでは祈るばかり。



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